経歴は情シスからスタート
僕がどうして情シスの話をするか、少し経歴から説明したいと思う。もともと、小さいころ自宅では、電子ブロック(部品がブロックになっているもの)で遊んでいたり、ラジオを組み立てるなど、科学工作に興味があり、モノを分解したりすることが大好きだった。
本格的に情報システムの仕事をするようになったのは、昭和59年。西暦でいうと1984年、今から36年前になる。その年は、ロサンゼルスオリンピックが開幕した年。1年前に、東京ディズニーランドが開園した年だ。
パソコンの世界は、FDD の世界から10Mの HDD が出始めたころの話で、今では博物館に飾ってあるようなものを使っていた時代だ。この文章を書いていても「古いなー」と思う。
僕が本格的に情シスの運用を始めたのは、ACOS-4 を使ったもので、バッチ処理が主流だった。時代はオンライン指向に変わり、さらに分散処理指向に切り替わっていく時代だった。
業務内容が電算処理によって変わる良い時代だった。その時の仕事で一番印象に残っているのが、ネットワーク型 DB からリレーショナル型 DB への更新作業を行ったことで、データ量が多くなり、一度にできる処理スピードも上がったため、障害が起きた時の対処について本番運用よりも入念に行っていたことを覚えている。
バックアップの考え方は当時と今もあまり変わっていない気がする。データベースの設計仕様書はすべて手書きだった。何度も書き直したりすることが嫌いではなく、むしろ得意だった。
情シスが好きになった原点である。
社会人としての基礎は情シスの職場からできた
情シスに居たことで、あらゆる業務システムを担当するようになり、全体の業務フローが手に取るように理解できたことを覚えている。
さらに高額の電算機を扱うため、プレゼンを上層部に行ったり、経営会議への資料作りを頼まれるなど、その時代にしかできなかった事ではあるが、情シスとしての本来の仕事を経験できたのではないかと実感している。
当時は情報システムとは言わず、経営情報室と言っていた。やはりカッコいいと思う。本来はそうあるべきだ。
このように20歳台の情シス経験は、社会人としてのマナー、コミュニケーション力、人脈形成の方法を学ぶことができ、この時に社会人としての基礎ができたのではないかと思っている。
職歴は、情シスの職場からスタートし、退職に至るまで数十か所の異動があったが、どこの職場に異動してもネットワークシステムを使った設備があり、エンジニアではあるが、情シスを兼務した形が多かった。
30数年はそのような生活をしてきたが、定年前の最後の職場は情シスと決めていた。実に感動的な話だが、「情シス」の職場への異動希望を叶えることができた。
やはり情シスが好きだった。61歳になった今もだ!
情シスの会話ができる集まりは大切にしていた
情報共有の場について当時から、大手メーカーのユーザ会があったことを覚えている。
月に1回の情報交換の集まりで、ユーザ会と言っていた。今でいうコミュニティのようなもので、打ち合わせの後は毎回懇親会がセットされていた。テーマは障害対応や、運用性改善の報告が中心だったが、そこでの情報交換が楽しくて、情シスの仕事をしていて本当に良かったと思ったものだ。
ある意味、異業種交流会を毎回行っているようで、貴重な体験だった。僕は、もともとそういう場所が好きなのかもしれない。
このコミュニティの集まりは、単に情報交換するだけでなく、何か困ったときに相談に乗ってくれる仲間作りに利用していた。
当然困ったときの相談はメールではなく直接電話になるため、結構ハードルが高かった気がする。これらの交流では、お互いが切磋琢磨しながら時を過ごした。
このような集まりは、今の時代でも新しいスタイルでの情報交換が可能になるものだと思う。ぜひ、機会があれば、積極的に参加して、交流を深めることをお勧めする。
まずは、気持ちを語り合えるコミュニティに参加し、情報交換で自分の思いを伝えてみると、ストレスも解消するかもしれない。会話が苦手でも、情シス仲間はわかってくれるはず。
情シス同士にしかわからないものがあるからだ!
コラムを書くにあたって
今回、このようなコラムを書くきっかけになったのは、今後、企業にとって情シスが見直される時代が必ず来ると信じているのと、可能であれば一緒に情シスの仕事に携わって行きたいと思ったからである。
ひとりの情シスは確かに忙しく、他の業務と兼務で大変な毎日かと思うが、会社にとっては大切なポジションであり、忙しいから何もできないのではなく、忙しくても技術を磨くことにこだわりをもって取り組んでもらいたい。
今までテレワークを推奨していても、なかなかできなかった運用が、コロナの影響で、一気にやらざるをえない状況で進んでしまったことは、誰もが体験したと思う。正直、「やればできるんだ」感はないだろうか。
DX を計画して実行するということは、思いきりが必要ということかもしれない。しかし、僕は、この急ごしらえの対応でもなぜ成功しているかというと、現在まで担当していた情シスの方々がいたからだと確信している。
このことに気付いて欲しい。自信を持って欲しい。間違いなく新しい風が吹き始めている。
今こそ、情シス間のコミュティを作り、情報交換を行うことで、ニューノーマル対応への助言、業務の効率化を図っていける、経営戦略の一翼を担える人材になって欲しい。
30数年前に図面を手書きで書いていた時代に戻った気分だ。とにかくわくわくした気持ちがよみがえってきている。
やるしかないのだ! ぜひ、「情シスは楽しい職場」であることを実感すべき時代だと思う。
これからも実体験をもとにコラムの執筆を行っていきたい。
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■著者紹介■
熱海 徹(あつみ とおる) 氏
1959年7月23日、仙台市生まれ、東京都在住
40年近く日本放送協会 NHK に籍を置き、一貫して技術畑を歩んできた。転勤の数は少ないが、渡り歩いた部署数は軽く10を超えている。その中でも情シス勤務が NHK 人生を決めたと言っても過言ではない。入局当時は、放送マンとして番組を作るカメラマンや音声ミキサーに憧れていたが、やはり会社というのは個人の性格をよく見ていたんだと、40数年たった現在理解できるものである。20代の時に情シス勤務をしたが、その後に放送基幹システム更新、放送スタジオ整備、放送会館整備、地上デジタル整備等、技術管理に関する仕事を幅広くかかわることができた。今まで様々な仕事を通じてNHK内の人脈が自分としては最後の職場(情シス)で役に立ったのである。考えてみたら35年は経過しているので当たり前かもしれない。2016年7月には自ら志願して、一般社団法人 ICT-ISAC に事務局に出向し、通信と放送の融合の時代に適応する情報共有体制構築を目標に、放送・通信業界全体のセキュリティ体制整備を行った。ここでも今までの経験で人脈を作ることに全く抵抗がなかったため、充実した2年間になった。私の得意なところは、人脈を作るテクニックを持っているのではなく、無意識に出来ることと、常に直感を大切にしているところである。